"セント・アンズ"や"ジョグリン・シティー"のキラサン系の箱では、とにかくSTONE LOVEと同じマイアミ仕込みの爆裂なサウンド・システムにヤラレ、当時まだ行ったことの無いキングストンを感じることが出来た。
当時のレギュラー・サウンドは、キラサン・サウンドの他にTERMINATOR、RED PRINCE、EARTHQUAKE(現 ROCK DESIRE)、WATER HOUSE、WADADAのマーティン等がおり、ブース内の彼らは、単なる小僧同然の俺にとって強烈な人間ばかりだったが、貴重な教科書だった。それぞれの個性がぶつかり合うレゲエは、アメ村のクラブ・シーンをリードしていた。その頃の"セント・アンズ"でガラムを吸うのが最先端だと信じていた。
そこ周辺には、箱のスタッフとして働くRYO the SKYWALKERやTRAN-X、アカガワジュン、シンヤワンダー、名前は忘れたがブラマヨ吉田のような顔の奴、また、"ヨゴレ"というジャンルを生み出し"ブチカマシ"ていたREVOLUTION CREW(TERRY & FUKU)や、坊主頭でタッティーを踊ってたWATER HOUSEのジャイアンなどが毎晩のように集まり、3時終わりのジョグリン・シティーから酒を飲みにいくのを口実に、三角公園前にあった"Bar isn't it Jamaica"に女をチェックしに行くが、パラパラよりも残念な振り付け集団の空気にバイブスと性欲すらも吸い取られ足早に退場し、マンチーな胃袋を満たすため喫茶"トマト”でトルコ・ライスが定番であった。
泉州に関西国際空港が開港した頃、湾岸エリアの過剰な開発の中、パパラと言うりんくうタウンの遊園地内に2,000人オーバーの吹き抜け2階建ての大箱"ジョグリン・リンク・シティー"が出来た。この頃の大阪のレゲエは、確かにバブルであったように思える。ウーハーは、記憶では48発以上のキング・サイズのサウンド・システム。広大なダンスホールの半分がオープン・エアにもなる会場は圧巻だった。泉州を中心に関西から毎週2,000人以上は集まっていた。
キラサンのマイクがLukie Dの [I Swear] を何度もコマゲンするのは週末の鉄板だった。無名のM.C.Nail&Sample; [Fire Fire] もお約束の必殺チューンであった。Stone Loveが来たときは最前列でWee-PowとRoryを観ていたのは発売されたビデオにも残っているし、ここには [Gal] や [Book Book Book] の頃のBounty Killerも来たし、DegreeやRed Ratも来ていた。ボンネットにボブの絵を描いてる白いコルベットかなんかのアメ車に乗って水パイプを銜えてるドレッドのおっさんもレギュラーだった。本格的な日本人のバンド・ショーを観たのもここが初めてだった。そして、NG HEADやら同世代のDJが、ちらほらBOOGIE MANやRED MONKEYらに混ざって歌い始めたのもこの頃だった....。
2008.03.18:MJR Kyara「SPAM日記」